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 山伏修験の護身術や呪術として生まれた棒術は、南北朝の頃に戦闘様式の変化から戦技化したり、神事芸能にかわってゆく。このような変化は、この地方の棒の手の歴史のなかにも、うかがうことができる。
 康安元年(1361)新居村を開いた水野又太郎良春は、無二と称して南朝方の憎将として吉野山(奈良県)にいたころ、当時の吉野金峰山寺の執行であった宗信法印から真公秘技兵法として、棒術と修験道儀礼を授けられた。新居に移ると配下の農民に棒術を教え、農兵団を組織するとともに、村の祝祭に修験道儀礼をとりいれた。
 戦国の頃、良春の曽孫(一説には玄孫)雅楽頭宗国は、新居城を築き、農兵団を縦横に駆使して、大森城主尾関某を打ちやぶり、大森城を焼きはらい、その後山田庄のうち二十五ヶ村を領したという。彼の合戦話は、

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毛受勝助(庄助)家照出生地碑

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という落首とともに、今に伝えられている。
 宗国の弟照昌は稲葉に移る。南朝方として活躍した松原一族もまた、稲葉盛重に率いられて、今村から稲葉に移る。文明年間のことである。
この頃が戦技としての棒術の最盛期である。
 照昌の家系から毛受勝助(庄助)家照がでる。彼は柴田勝家に仕え、小姓頭として長島の戦いで奮戦した。のち越前(福井県)鯖江附近で一万石を領する。賎ヶ岳の戦いで、勝家の身代りとなり湖北の花と散るが、棒術全盛時代の出世頭であった。

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棒塚

 天正十二年(1584)長久手の戦いのとき、ひとつの悲劇がおこった。三好秀次の軍兵が村にあらわれ、食糧の調達を要求した。この前年は非常な凶作であったため、村人たちはその日の食にもことかく状態であったという。なけなしの食糧を持っていかれようとする村人をかばい、調達を中止させようと交渉にでかけた水野吉平は、帰ってこなかった。
さがしにでた村人は白山林で彼の遺体をみつけ、ひそかにとむらい棒塚(一説坊塚)と名づけた。長久手の安昌寺の雲山和尚も、とむらいにきて、塚の前で涙をながしたと伝えられる。(水野吉平は、当時、八瀬ノ木にあった量樹庵の住持であった。棒の師匠をかねた修験者であったという。)村人の中には、雑兵として動員された者以外に、ひと旗あげようと従軍した者もあっただろうが、村に残された大部分の農民にとっては、迷惑なことだったろう。
 長久手の戦いは、この地方にとっては、中世末の大事件であったところから、自分たちが主役を演じたような伝承がうまれた。しかしその多くは後世の付会であり、江戸時代の軍談の影響である。また何かにつけて長久手の戦いにむすびつける傾向がはじまるり、長久手合戟より古い年号のある古石塔は、いうに及ばず、円筒埴輪をめぐらす五世紀の古墳までが、大将の墓にされたり、落武者の首塚にされたりする。
現在でも、さびた鉄製品がでると、すぐに長久手合戦に、むすびつける傾向が強い。
棒の手も長久手合戦に結びつける傾向があるが、それがすべてではないので、速断をつつしむべきである。

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(1)修験者とのかかわり
 刃狩、兵農分離という武家政権の圧力のもとでは、戦力となるものを持ちうるはずはなく、農兵はその姿を消す。農村に住んでいた武士のうち藩士にとりたてられた者は、城下町に移り家臣団を形成する。古風な戦技的な棒術もまたその姿を消し、室町時代からつづいていた山伏修験を中心とした呪術的な要素を持つ棒が表面にでる。
 農民である以上、五穀豊穣を願わぬ者はない。農作物に必要な太陽などのめぐみは、神仏のめぐみであると考えられ、神の降臨をねがうため、松や杉などの大木が神木として、それにあてられた。高い木がえられない場合は、よりしろとして棒があてられた。
この棒を身近におけば、神は人間の近くに降臨するとして、歩くときにも持ち歩いた。山伏修験が金剛杖と称し、錫杖としたのも、この所業からである。神がそこに落ちつけば、それは神の「よりしろ」である。棒は神の定着位置と考えられた。
 現在、祭礼に使用する棒に、小さくたたんだ白紙をまき「心の封紙」と称しているが、本来は棒が神の「よりしろ」であることを示す意味のものである。また、腰にも白紙をつけるが、これは血どめ用ではなく、その人自身の心の封紙であり、神に仕える人であることを、あらわすものであった。
 祭礼にあたって、行列が神社などの境内にかけこみ、外から中へまわりこみ、大勢に地面を踏ませるようにするのは、悪霊を地中に封じこむ意味のものである。中へ中へとまわりこみ、棒を高くあげるのは、神を天からむかえる意味のものである。棒が多ければその効果も大きいとされた。合理的に考えれば力の分散で、それだけ神の力が弱くなるのであるが、当時の農民は、そうは考えなかった。
 演技の始めに、「一丸爾」あるいは「いただく」と称する動作をする。これは神の力をかり、悪霊を封じ自分もけがをせず、相手にもけがをさせない動作であると伝えられる。また演技にあたって、うまく棒をつかわなければ、せっかく棒にむかえた神が落ちてしまうと、いわれた時代もある。神社から自分たちの集落へ帰ると、集落内の家々を巡回する。喪のあけない家は別として、家巡回は祭礼の縁起とされた。これは巡回が、神のおとずれとして、強く意識されていたためであろう。この巡回のときに、「お加持」と称して、棒で病人などの肩を、なでたりする風習もあった。
 山伏修験は、棒や太刀を振りまわして、村びとの延命息災や五穀豊穣を祈願する呪法をもっていた。いろいろな厄病や災難は悪霊のたたりであるとし、これを鎮めるためには、激しい足踏や、棒、太刀の打ち払いが最上の手段であると考え、荒わざをおこなったのである。
 このような呪法を持ちこんで定着した山伏修験は、祭事者であり、医者であり、物ごと一般の相談役であり、時には農業の指導者にもなり、芸能の伝播者ともなった。現在、市内にある流派のうち、山伏修験のからんだ流派がその成立時期が古いのは、このような背景があったからである。
 無二流秘伝によると、水野良春の孫である松木心道は棒の初代であるという。伝えられている彼の修行について、くわしく検討すると、棒の修行もさることながら、「木食行」「不動不眠行」など山伏修験の修行そのものである。彼の系統は古代家とよばれ、本山派修験(天台宗系)である。長久手の戦でなくなる水野吉平(松木宗伝ともいう)までつづく。彼らの残した呪術的な棒の姿は、「治均式」として、現在まで伝えられている。

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伝昌院(塚本)伝寿の墓

 文禄二年(1593)無二流を開いた享風兼政、寛文元年(1661)型式を完成した大徳政良父子は、なぜか当山派(真言宗系)に転じ、ともに大覚院を名のる修験者である。無二流の他、江戸時代の前半に成立した市内の流派は、何らかのかたちで、修験者とかかわりをもっている。このことは、修験者が祭事を媒介として村とむすびつき、棒の手を通じて、自らの小信仰圏を確立しようとした動きのあらわれであった。

(2)武術志向
 神事としての棒は、呪術的な性格や、荒々しい動作からくる威圧感はあるが、一般の人びとの目を楽しませるには至らない。そこで、一般の人びとを対象とした動きが、「神にそなえる棒」という名目で、くふうされる。現在の各流派の「本手」とか「表」とか「舞」と称するものが、これにあたる。動作のくふうが、流派を生みだす機縁となるのである。
 観衆の目を意識する傾向は、しだいに強くなり、それとともに、ふたたび武術志向が強まっていく。戦国の軍談は、それを補強するかたちとなる。武芸者の門をたたき、免許をえて、それを村びとに伝授するかたちをとったのは、伝昌院伝寿である。

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比企良雄の巻物

 比企良雄の活動範囲はかなり広く多岐にわたっているが、猪子石村に定住してからは、「棒会」と称して各村から参加者をあつめ、演技を競わせたりしている。莱岳院良雄の名でだされた巻物は、宝永五年(1708)及び同六年、正徳三年(1713)及び同四年、順海の名でだされたものに元文三年(1738)のものが、それぞれ現存している。
 このような伝昌院伝寿(塚本伝寿)や比企良雄の動きにみられるように、江戸時代の中ごろには、修験者自身が武芸的な方向を志向していることである。
一方、無二流にあっては、修験者としての地位を高めることによって、格式をととのえ、呪術的な重みをまそうとしている。たとえば称号だけをみてみても、「智見院良然法印」といった一般的なよび方であるが、江戸時代中ごろをすぎると、「大越家権大僧都知見院道源良海法印良雄」というような堂々とした称号を名のつている。比良良雄と同名であるが、まったくの別人である。しかし、この無二流も比企良雄の影響をうけているので、武術指向はいなめない。
 また、この頃から「免許巻」とか、「譲り巻」とか「中段巻」と称する巻物類が重視される傾向が生まれ、巻を持った演技者の権威づけがなされ、流派の個性が強調されるようになる。
 このような流れのなかから、農民出身の流祖が生まれる。比企良雄の門をたたいた印場村の八木弥市郎は、免許皆伝を授けられ、別に精神的な教えである「直心無我の巻」を授けられる。正徳四年(1714)のことと伝える。良雄から譲られた直心流に自らのくふうを加えて直心我流を開いたという。他の流にあっても、「巻取り」、「師匠士」あるいは「師匠」、「後見」などと称する腕達者な人びとが農民のなかからでるようになる。
 このような経過をへて、演技者の主体が、修験者から農民の手へ移っていく。その内容も、「神にそなえる棒」と、観衆の法楽という二面性を帯びるようになる。安永八年(1779)には、試合的な色彩のある他流との交流や、競演にあたる「棒会」は禁止されてしまう。このころは、武術志向が、かなりエスカレートしていたことを想像させる。同時に棒の重点もまた「神にそなえる棒」から「見せる棒」 に移り、「祭礼棒」と称されるようになってきている。無二流の記録に安永十年つまり天明元年(1781)に祭礼棒が、つくられたと、記されているのは、このことを裏書きしているといえよう。同じ記録には、この年の祭礼に、鉄砲五丁馬二頭で祭がおこなわれ、棒の衣裳も現在のように改められたと記されている。(ただし、ももひきが白になるのは大正以後)現在の祭礼の源流は、このころにあると考えられる。

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 文化二年(1805)に、伝昌院伝寿の子孫である善京から村方へ、棒の師匠元がゆずられる。これ以後、東軍流は、平岩清伝から伝寿がうけた巻物を「棒の本巻」と称し、譲り巻として農民が受けついでいく。善京の子孫は入門帳の認証者として、その名をとどめる。
 一方、文化八年(1811)毛受周平が山方役人をやめて帰農したのを機会に、農民に棒を伝授し、検藤流を称するようになる。この地域は戦国末から、このごろまでの前史があるはずであるが、今のところ解明されていない。今後の研究に期待したい。

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森下理右衛門の墓

 庄中地区においては、文政四年(1821)直師夢想東軍流として森下理右衛門が一派をおこし、彼の「直師夢想東軍流棒目録」を譲り巻として農民の手で相伝されている。森下理右衛門の事蹟は、この地域にとっては特筆すべきことであったらしく、彼の死後、天保十一年(1840)供養塔が建立きれる。市内の棒の手関係のものでは、これが最初である。
 ところで、さきにのべた東軍流は、ほんらいは「直師夢想東軍流」が正式の名称で、庄中地区の伝える流名と同一である。善京が村方にすべてをゆずったのを横合に、庄中地区が独立したとも考えられる。しかし伝承では、森下理右衛門は、出来町の蓬師範のもとで学んだものを伝えたという。比企良雄の住んだところを蓬莱谷と称するので、良雄の子孫とのかかわりも想像できるが、はっきりしない。庄中地区の前史については、今後の研究に期待したい。いずれにせよ、この時点から印場村ではすべての流派が、農民によって運営きれることとなる。

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諸先生供養塔

 このように祭礼棒が全盛にむかうのを契機として、ほとんどの流派の運営が修験者の手をはなれ、農民の手に移っていくのであるが、無二流のみが、「大越家権大僧都」を称する修験者の手で祭礼棒への改革がおこなわれる。文政八年(1825)知見院全心法印政勝による改革がそれである。彼の時代は無二流にとって特筆すべき時代であったらしく彼の死後嘉永五年(1852)「諸先生供養塔」が建立されている。
 「棒の手」という名称が文書の上にみえるのは文政八年(1852)が最初で、それまでは“棒”といわれている。文化・文政のころは、現在の花棒の源流にあたる祭礼棒の最盛期である。このころは「キレモノ」と称される真剣、槍などは登場せず、棒や太刀が使用されている。棒の手では木太刀のことを太刀と称し、一般にいわれるそりのある片刃の刀のことではない。刃のある刀は真剣と称される。棒の手特有の名称であるから注意を要する。ながいあいだ真剣にかわって木太刀が使用されてきたため、木太刀を太刀とよぶことが習慣となり、名称として定着してしまったためである。
 祭礼棒として、観衆に見せる棒がさかんになってきたものの、まだ「神にそなえる棒」と、「人に見せる棒」は厳重に区別され、村によっては、両者の演技場所を区別しているところもあるのである。けれども、まったくの見せる棒である花棒化の傾向は、しだいにすすみ、早いところでは天保年間(1830~1844)には、“キレモノ”を使用する花棒があらわれる。天保十二年(1841)の「尾張名所図会」には、花棒の記事があらわれ、また嘉永元年(1848)の直師夢想東軍流(庄中)の文書には花棒の字がみえる。「名所図会」の記事は猿投合宿に関するもので、これには現市内の三郷地区にあたる三ヶ村(狩宿、瀬戸川、井田)が含まれ、一方、庄中は竜泉寺合宿の区域(現市内では、印場、新居、稲葉の三ヶ村)に属する。したがって現市内においては、すでに花棒化がすすんでいたことを示す。

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 明治になると神仏分離がおこなわれ、修験道も禁止される。この影響は棒の手にも及び、これまでなんらかのかたちで棒の手にかかわっていた修験道関係者は、すべて棒の手からしりぞけられ、すべて農民の手に移っていく。明治六年(1873)からは「キレモノ」が公然と使用され、これを含めて花棒と称きれるようになる。とはいうものの花棒は、まったくあたらしく考案されたものではなく、巻物などに中段、中奥、奥などと記され、祭礼棒にあてていた棒・太刀中心のものや、それまで公開されなかったもの、使用する道具を「キレモノ」変えたものなどを花棒と総称したのである。中段などと称する以上は、かなりの技術を要する演技である。それに一部ではあるが道具がキレモノにかわっているから、一般から見れば、見ごたえのある演技が登場してきたこととなる。したがって花棒は、「見せる棒」の代名詞であるともいえるのであるが、演技する側からいえば、見せる棒になったために観衆の期待にこたえねばならず、そのために、かえって演技がむつかしくなったともいえるのである。しかし、花棒と称し見せる棒になったといっても、好き勝手に創作されたものではなく、伝統の上になりたっている一つの段階であることを見落してはならない。
 明治以後も神にそなえる棒と花棒を区別して、演技をする場所をかえる習慣が残る地域もあるが、大正十四年(1925)に新居地区がすべての演技を多度神社でおこなうようになるのを最後に、どの地域も当時村社に指定された神社に演技を奉納するかたちとなり、現在にいたっている。

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県指定書

 第二次世界大戦の戦中戦後を通じ、中断の時期があった。中断することは、やさしいことだったが、復活させることは、きわめて至難なことであった。このとき中断したままの地域もある。再興には、たいへんな苦労を必要とした。
今にして思えば、棒の手の再興と保存のためについやされた力は、棒の手はじまって以来の巨大なエネルギーの集積であったと、つくづく思うのである。
 その甲斐があって、昭和三十三年に「旭町の棒の手」として愛知県指定無形文化財となり、昭和五十一年には、「尾張旭市の棒の手」として愛知県指定無形民俗文化財に指定され今日に至っている。

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